シン・ゴジラ4回目で分かったこと。
1:野村萬斎のゴジラ歩き、「マンサイ・ムーブ」(いたう命名)が一番堪能できるのは、第4形態ではなく、第3形態。
2:序盤で矢口が「対処の検討を」と呼びかけるが、官僚が「それ、どこの役所に言ったの?」という場面。これは、縦割りや、法案やシステムの未整備により、計画の策定も実行もうまく進まない状態が、後半に巨災対が設置され、同じセリフを語るが、縦割りの垣根もなくなり、上手くいくことを表現するための伏線なんだなと今更気付いた次第。
あの一言、最初見た時には、コミカルな「抜きどころ」に見えるのだが、そういう効果も内包していたとは。
ここに見られるように、作劇的にも、この作品は高水準だと思う。
作劇技術の宝庫。
3:「タバ作戦」1
戦車の砲撃により、「脚」を止めたところで迫撃砲や、ミサイル。
たしかに、市街地の被害を最小限にして全てを命中させようとすれば、そうなるなあと。
「自衛隊の武器で国民の財産には傷一つ付けない」という、自衛隊の覚悟が伝わってきたシーンであった。
4:「タバ作戦」2
戦車部隊の中隊長(斎藤工)が、橋に潰されて死亡(行動不能?)したことにより、部隊の統制がこの瞬間に不能に。
ゴジラへの第二次攻撃ができず、タバ作戦の続行を諦めざるを得ない理由の一つとしての意味を持っていた。
5:「ピエール瀧」
「感情は無用。今後は救助を一生懸命やろう(意訳)」ってところの、「感情は無用」って部分にグッときた。
何度聞いてもグッとくる。
常に自分にできる最善を選択するために、感情は脇へ置いておく。
いたうが心掛けようとしている姿があそこに。
グッとくるわー(つД`)
6:「ゴジラ人間」
最後のシーンでゴジラ人間が産まれようとしていたシーン。
あそこは、冷却材を流し込まれ、身の危険を感じ取ったゴジラが、「第5形態」へ進化することで逃れようとしていたのだなあと理解。
その前のゴジラが活動停止していた時に、尻尾が「カチン」ってなるのは、少し行動したくらいでエネルギー切れを起こしてしまい、活動停止してしまうことに、「こんな体じゃあダメだ」と感じたゴジラが進化しようとしていたシーンなのだろうなと。
第2形態から第3形態への進化も、熱処理で不都合を感じての進化だったし、不都合を感じれば、すぐさま対応できる体に変化できるという点において、ゴジラは「柱の男」のカーズ並みだということになるのだろう。
いたう的には、たとえ核を落とされたとしても、フェーズドアレイレーダーがあるので、感知できる。
そしたら、迎撃できないことを悟った瞬間に、地中に「種」のようなものを埋め込むようにして、核爆発をしのぎ、それが落ち着いたころを見計らって「芽」を出し、「花」を開くか、「胞子」のようにゴジラ人間をまき散らすように放出するのではないか、という風に思った次第。
7:最初の「グローリー丸」の船内。
折り鶴が置かれている上の方に、白い本が置かれているんだけれど、やっとタイトルが判読できた。
「呉爾羅」だ。
多分あれは、呉爾羅についての民間伝承をまとめた本なのだろう。
もしかしたら、牧教授の自費出版なのかもしれないなあとw
船内の靴の置き方と、メガネの置き方にも多分意味があるんだろうなあとは感じているが、現時点で分からず。
8:この映画の主役は泉修一であると断言する。
今回観て思ったのは、シン・ゴジラの「主役」は、泉修一だということだ。
見れば見るほど、泉修一のやったことの功績の大きさを痛感させられる。
彼が実際に被災者支援法案、災害復興法案、巨災対設立、フランスや国連とのカウントダウンを巡る政治的交渉、ヤシオリ作戦の「実行承認」だけにとどまらず、作戦時の自衛隊、米軍との連携等々。
ここら辺を実際に差配していたのは、彼に他ならない。
どれだけの作業量か。
この間彼は、ほとんど寝ていないはずだ。
なのに、「まずは君が落ち着け」という風に、内閣の大半が死亡したあの状況で、物事を理知的に、大局的に見ることができている。
あの時の彼には、アレシア包囲戦の時のカエサルに匹敵するのではないかと思ったほどのバイタリティを感じた。
一連の災害(ゴジラ)対応は、脚本、演出、泉修一とでも言えるのではないか。
巨災対は、泉が敷いたレールの上を完璧に走り切ったということなのだ。
そこを踏まえると、ヤシオリ作戦が成功に終わった時の、あのホッとして脱力した泉の姿は、自分の「作品」が完璧な形で完結したということの安堵と恍惚の姿だったのではないか、と思えてきてならなかった。 この映画は、矢口の成長物語であるように見せておきながら、大政治家、泉修一の「序章」なのだ。
修一さんカッケー!
惚れる!
惚れる!
以上、現時点で思い出せるのはこれくらいかな。
シン・ゴジラ、たまらんです。